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角幡唯介▼探検家、36歳の憂鬱

20121203

2012.12.03探検家36歳の憂鬱

私がチベットの峡谷地帯を単独で探検しました、北極を百日間も歩いてました、というと、多くの人は意味が分からないと一言で切り捨てるが、私にいわせれば富士山を登ることも同じように意味が不明である。〔…〕

両者とも自然の中に入り込み、身体を刺激して生感覚を活性化させたいという行動の立脚点は同じである。私と富士山に登る人は同じことをしているはずなのだ。


富士山の頂上に登った時、私にはそこが現代人のサナトリウムのように見えた。

群衆が押し掛け体を休めるその場所は、まさしく身体を喪失した者たちの療養空間だった。
〔…〕

この人たちの病根は自分と同じである。治療の方法はない。富士山に登っても、チベットを探検しても、生感覚は完全に充足されない。病巣を取り除くことができないまま、私たちは生きていくのである。

――「富士山登頂記」


▼探検家、36歳の憂鬱│角幡唯介│文藝春秋│ISBN:9784163754703│2012年07月│評価=◎おすすめ

〈キャッチコピー〉
大宅賞作家、初の冒険エッセイ。なぜ探検家はもてないのか、探検家の性とジレンマ、雪崩に遭い感じた死、富士登山に思うこと、東日本大震災の被災地を訪ねて、など。

〈ノート〉
上掲の「富士山登頂記」、著者は冒険家のイメージと違い、けっこう饒舌である。夏に若者たちは群衆と化し長蛇の列を作りながら富士山に登る。著者は言う。「なぜまた富士山などに登るのだろう」。

富士山は、第1に、頂上まで一定の傾斜でジグザグの道が延々と続き変化に乏しい。第2に、3776メートルと標高は日本一なので、酸素の薄さも日本一。そして著者も登ってみて気づく。もしかすると富士登山者というのは大半が日の出を拝むために登るのではなかろうか」。

「彼らは至る所に腰を下ろし登山の疲れを癒していた。しかし癒していたのは果たして登山の疲れだったのだろうか」
風物詩的な新聞記事や旅雑誌の登山ルポと違い、冒険家の視点が新鮮に見える。

さて、本書でもっとも興味を引くのは、「行為と表現――実は冒険がノンフィクションに適さない理由」というエッセイである。

たとえば紀行文を書くため、旅に出る。旅先でトラブルが起きそうになる。そのときトラブル発生で何か書けることが起きるかもしれないと期待した行動をとった場合、その旅は純粋な意味での旅ではなくなってしまうのではないか。そのトラブルを作品の中で事実しか書かなかったとしても、それはノンフィクションと呼べるのか、と著者は提起する。

著者は、ツアンポー峡谷探検時に死の危険に直面した時、半分ぐらいの確率で死ぬかもしれない一か八かの解決策か、とりあえず生き残れるがじわじわと野垂れ死にするか、の選択に迫られる。結果は第3の生き残り策が見つかるのだが……。

「もしその一か八かの解決策をとって生き残っていたとしたら、自分はもっとスリリングな物語を書くことができたんじゃないだろうか。この探検の物語を、人間の生と死にかかわる、より力強いレベルに押し上げることができたのではないだろうか」と冒険家ではなくノンフィクション作家としての著者は思うのである。

〈読後の一言〉
安易なノンフィクション作品が多い昨今、本書の「行為と表現――実は冒険がノンフィクションに適さない理由」のストイックな姿勢に強く魅かれる。


〈キーワード〉
富士山登頂 療養空間 ノンフィクションの行為と表現

〈リンク〉
角幡唯介◎空白の五マイル――チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む

角幡唯介◎雪男は向こうからやって来た



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